インターネットにおける怒り、分析

様々な怒りの根本には、疑問がある。
“なぜ”こんな酷いことをするのか?“なぜ”あなたはこんなことも出来ないのか?“なぜ”私はこんなことをしてしまったのか?

この例における3つ目、他人ではなく自分のことはともかく、他人に対する怒りは興味深い。“なぜ”、ということは、期待の裏返りなのだから。先程の例文を隅々まで書けば、「なぜあなたは人の気持ちを慮ることなく、自分が言われたら嫌だと思うようなことを、言葉にすることを躊躇うことなく、遂には相手に伝えてしまったのですか?」となるだろう。

つまり、怒りの対象である人間に対しては、一種期待しているということが伺える。「あなたは本当はしっかりできる人なのに」という隠れた期待があるということだ。

そもそも、できるはずなのにやらないから、あなたに対して怒っているのだ。こうあれば皆幸せなのに、なぜあなたは幸せの邪魔をするのかと憤る。

しかしここに大きなミスがあるのではないか?
怒りの対象であるその人間は、果たして本当にあなたが考えるような「人間」なのだろうか?期待をすることも無駄な人格の持ち主の可能性が高いのではないのか。

人間は色々居る。そして一人一人の常識が存在する。この常識というのは、決して個性などという崇高な価値観ではない。端的に言って、主観的に他人を気が狂っているかどうか判断する思料のことだ。

このインターネットの時代においては、より濃くそれが現れる。それまでは、伝わることに時や場所など様々な制限があったことが、一瞬にして膨大な量現れてしまう。

現実において本来、他人の常識は気にするべきではない。でないと自分の一挙手一投足に疑問を感じてしまうからだ。確固たる己を持つ人間ならいいが、そうでない人間が一々他人の目を気にしながら生きていくのは辛い。

そもそも現実では、他人の常識は文字通り聞こえてこない。言うまでもない話だが、例えば、電車の中でスマホを見ることは悪いことだと考える人がいるとして、しかし直接咎めたりその常識を仄めかしてくる人は基本的に存在しない。
一方インターネットではどうか?同じく言うまでもないが、そんな発言だらけだろう。いつ誰に対する意見なのか知らないが、むしろ空中に放つような発言として、常識の話はいくらでもされている。

ここで気をつけたいのは、インターネットでの発言なんてものは、基本的に本当に、心底、くだらないことだと、確認しておくある必要があることだ。見ず知らずの人の常識などは全く持って気にする必要はない。会ったこともない、そして多分今後一生会うこともない人間の何を一言も聞いてやる必要があるというのか。現実ではないだけで、インターネットにおいて糞便を無差別に撒き散らすような行為には全く触れてはいけないのだ。それこそ現実で言う「話は署で聞くから」といったところだ。言い分を聞く必要なく、無用で反射的に切り離してしまえばいい。

つまり、今日のインターネットにおいてのあなたの怒りは、その必要すらないのである。怒りの対象である人間は、期待に応えてくれるはずはなく、それどころか現実では有り得ないような傍若無人の振る舞いをしている。その様な人間のことを一秒でも考えてやる必要は全くない。

さて、この記事は私に対するいましめでもある。謂わば、怒りに対する怒りである。貴重な私の人生の時間を、このような怒りに使ってはいけない。インターネットなどうまいところだけ吸い取り、後は捨置けば良い。荒らしに対して怒りすら持ってはいけない。自分の楽しみだけをひたすら楽しめるようにすればよいのだ。